月日は百代の過客にして
はじめまして。凪といいます。
数多くのブログの中から見つけてくださり、ありがとうございます。
機械音痴&三日坊主の私がブログを開設したのには訳があります。
私は中学校で国語を教えています。秋も深まったこれくらいの時期は、だいたい古典のことが多いです。中でも、今回の単元は「おくのほそ道」でした。授業をする身としては、教材のことをよく知っておきたかったので、角川のビギナークラシックスの「おくのほそ道」を読んで勉強をはじめました。というのも、お恥ずかしながら私が持っている知識は、作者・松尾芭蕉の名前と、旅しながら俳句書いたのねということと、私が中学生のときに見ていた「ギャグマンガ日和」の松尾芭蕉だけでした......
これです。
知っている人はきっと同世代ですね。
私は弟子の曾良にビンタされている松尾芭蕉しか知らなかったので、本を読み進めていきますと、今まで知らなかった松尾芭蕉の人物像が浮かび上がってきました。
特に、彼の人生観や人柄が見られたのはこの記事のタイトルから始まる冒頭文です。
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
時は永遠の旅人である。月も日もそして年も、始まりと終わりを繰り返しながら、歩み続けて止むことはない。したがって、時が歩みを刻む人生は、旅そのものであるといえる。(中略)昔の有名な文人にも、旅の中で一生を終えた人がたくさんいる。
(角川ソフィア文庫 「おくのほそ道」)より
歩み続けることこそが人生であるという芭蕉の考え方は新鮮で、自らが敬慕する偉人の後を追い、それを実行できる芭蕉に純粋な憧れを抱きました。股引の破れを直し、笠の紐を付け替え脚にお灸を据えて、ついには住んでいた家さえも人に譲り渡し、人生の旅に出る芭蕉。私が最も心を動かされたのは、「俳聖」と称された彼が残した、この一句です。
草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
草の戸は、芭蕉が住んでいた庵です。私が住んでいた粗末な家も、雛人形が飾られるような華やかな家に代わる。大意はこんなところです。
移り行く時の儚さや、この庵で安らかに過ごしていく新しい家族に思いを馳せ、旅立ちの前にこの句を柱に掛け置くときの芭蕉の慈悲深い表情が浮かんできます。
なんとなく、教科書に載っている歴史上の人物は「凄い人だなあ」というのが先行して共感って言うのでしょうか、そういうのがあんまりできなかったんです。凄い人は凄いよね〜って感じで。でも、この句からイメージする芭蕉は、もちろん凄い人なのは変わりないのですが、なんか、近所にいるおっちゃんみたいで、あたたかい人だなあって思ったんです。儚く散った武人を思い涙を流したり、道中で俳句指導を懇願され長時間かけて教えてあげたり...そんな人がつくる俳句だからでしょうか。とても心を動かされました。
俳句っていいな。つくってみたいな。
「おくのほそ道」を読みながら、わくわくしている自分がいました。人生は旅である、そんな立派なことは考えられないけれど、私も、私が見たこと・感じたことを俳句に残してみたいと思ったんです。
そして、本屋に駆け込み、歳時記とノートを買い揃え、ブログを開設して...今に至ります。
行きたい場所へ訪れたとき、身の回りの何かに心を動かされたとき、その一瞬の心の動きを切り取って俳句にしてみようと思います。お見苦しいところもあるかと思いますが、たまにご覧いただければ嬉しいです。
それでは、今日からゆるっとはじめてみます!最後までお読みいただき、ありがとうございました。